以下の論文は、中部哲学会『中部哲学会年報』第35号(2003年)、1〜16頁に掲載されたものです。



労働による私有財産──ロックの私有財産論の再検討 

浅 野 幸 治   



    序

 ジョン・ロックの私有財産論はロックの市民政府論の一部であり、その市民政府論は社会契約説という考えに基づいています。つまり国家は、人々が社会契約によって設立するという考えです。そして、国家を作るのは人々の生命、自由、財産を守るためです。ですから、私有財産は国家に先立って存在し、私有財産の本性は国家の設立に先立って説明する必要があります。
 ロックの私有財産論の基本は、以下の三つの原則にまとめることができます。
1、私有財産成立の原則
 人が労働を加えた物はその人の私有財産になる(二七節四〜七行)(1)
2、私有財産成立の付帯条件
 「他人にも十分なだけ同様な質の物が残されている限り」(二七節一二〜一三行)。
3、私有財産の範囲条件
 腐らせずに利用できる範囲内で(三一節七〜九行)。
 これら三つの原則の他に、ロックの私有財産論には次の三つの前提があります。
前提1、すべての物は人類の共有物であった(二五節六〜八行)。
前提2、人間には生存する権利があり、そのために必要な物を消費する権利がある(二五節二〜四行)。
前提3、自分の身体は自分のものであり、従って自分の労働も自分のものである(二七節二〜四行)。
前提1は、すべての物に対してすべての人が等し並に権利を持っていて、誰一人として排除されないということをいいます。ところが、私有財産とは他人による利用を排除することに他なりませんから、どのようにして人類の共有物が私有財産に転化し得るのかという疑問が生じます(二五節九〜一〇行)。この疑問に答えるものとしてロックの私有財産論は構想されています(二五節一六〜一八行)。前提2が述べる生存権は、ロックによれば人間の自然権、つまり国家の成立以前にも存在する人間の権利です。また人間は食べ物を食べないでは生きていけませんから、生きていくために食べ物を食べることも自然権に属します。ところが、食べ物を食べることは他人がその同じ食べ物を食べることを排除しますから、人間が生きていくための権利を有するということはある種の物を私有する権利を持つということになります。そして人間に特定の物を私有する権利があるとすれば、その物に対する権利を獲得する方法があるはずです(二六節一〇〜一二行)。こうして前提2は前提1と組み合わさって、私有財産を正当化する論理の必要不可欠性を述べることになります。
 それでは、共有物が如何にして私有財産になり得るのか、この問いに対する鍵を提供してくれるのが前提3です。私有財産は無から生じる訳ではなく、私有財産を発生させる元になるものがあります。それは人類の共有物ではないような物、即ち各人の身体です。前提3の前半は、自分の身体が自分のものであること──自己所有権──を主張しています。自分の身体が自分のものであるから、それを基礎にして他の物に対する私有財産権も可能になる訳です。言い換えると、ロックの私有財産論では、私有財産権は自己所有権の延長または拡張として理解されています。そして自己所有権と私有財産権を結び付けるのが、労働という観念です。前提3は全体として、自分の身体が自分のものであるから、自分の手足の働きである労働も自分のものであることを主張します。
 以上がロックの私有財産論の大変大雑把な概要ですが、その中で最も重要なのは私有財産成立の原則です。本論文では、この原則の意味を解明し、この原則の正当性を再評価します。

    一、私有財産成立の原則の解釈

 私有財産成立の原則をもう一度述べると

人が労働を加えた物はその人の私有財産になる(二七節四〜七行)
です。何故でしょうか。労働を加えることにどういう意味があるのでしょうか。この点に関していくつもの解釈が考えられていますが、主な解釈は五種類に分かれるように思われます。即ち、第一に「一体化」、第二に「功績」、第三に「価値創造」、第四に「効用」、第五に「自由の拡張」です。このうち、一体化と功績と効用は結局のところ見込みがないので、それらの解釈が認められない理由をごく簡単に述べるに留めて、本論文ではもっぱら価値創造と自由の拡張に焦点を絞ります。
 第一に「一体化」とは、人が何かを自分の一部にしてしまうことですが、そのような事実は権利の問題とは別問題です。第二に「功績」と呼ばれる見方があります。では何故、労働することが私有財産を得るに値する行為なのでしょうか。まず考えられるのは、労働することを神が人間に命じているから、という理由です。しかし、神の命令に従うのではなく利己的な動機から働いた場合でも、私有財産は成立するはずです。次に考えられるのは、労働することが苦しいことだから、という理由ですが、苦しいということは労働の本質的特徴ではありません。
 では、労働が現に苦痛である場合、私たちが本来なら避けるべき苦痛を敢えて堪え忍ぶのは何故でしょうか。言い換えると、苦痛に耐えてまで労働する目的は何でしょうか。この問いを考えることから、「労働を加える」ことについての第三の見方、つまり「価値創造」と呼ばれる見方が生まれてきます(2)。ロックは労働について次のように述べています。
あらゆるものに価値を付け足すのが労働である。(四〇節三〜四行)
そしてロックは、土地の価値を農産物の収穫によって計り、労働が加えられていない土地は労働が加えられた土地に較べて多めに見積もっても十分の一(四〇節一〇〜一一行)、小麦の収穫で計ると千分の一の価値しかないと主張します(四三節一〜七行)。十分の一と千分の一では大きく異なりますが、要は「物の価値の大部分を創りだすのは労働である」ということでしょう(四二節一四〜一五行)。この点は土地について当てはまるだけでなく、パンのように私たちが直接利用する製品の場合には一層明らかでしょう。ロックは次のように述べます。
私たちが直接利用する製品の価値を正しく評価し、それにかかった費用を数えて、どれだけが純粋に自然の代価であり、どれだけが労働の費用であるかを計算するならば、大抵の製品の場合、九九パーセントまでが労働の費用であることが解るだろう。(四〇節一一〜一五行)
 労働が加えられる前には存在しなかった価値を労働した人が創りだすのですから、労働した人が自分で創りだした価値を所有することはごく自然なことでしょう。少なくともその価値に対して他人が所有権を主張できる根拠はないように思われます。ですから、この「価値創造」と呼ばれる見方は、私有財産正当化の議論として相当の説得力があり、私としては基本的に有効な議論だと考えます。
 しかしながら、この価値創造という見方に疑問を呈することはできます。人がある素材に労働を加えて、ある価値を創りだしたとしましょう。そのことが何故、その素材に対する所有権を生むことになるのでしょうか。労働が素材に価値を付け加えた時、その素材の価値は上がります。例えば、人が木を伐り、製材し、机を作ったとしましょう。この場合、木を伐るとか、製材するとか、机を作ることが労働であり、そういった労働が木の価値を高め、机を生みだします。生みだされた机は、木という素材と加えられた労働・価値とから成り立っていると言えるでしょう。では何故、労働した人は、この付加価値に対する権利だけではなく、机の全体に対する所有権──素材の所有権までも含めて──を得るのでしょうか。
 この批判にロックは次のように答えるでしょう。
人の手が加えられていない土地はほとんど何の価値もない。(四三節八〜九行)
自然や大地は、ほとんど無価値の原材料を提供するに過ぎない。(四三節二一〜二二行)
だから、人が労働によって土地を改良した場合、
労働に基づく所有権が土地の共有権を凌駕する。(四〇節二〜三行)
つまり、労働が加えられていない自然資源はほとんど無価値なので、労働が創りだす付加価値と較べた場合あたかも無価値であるかのように扱ってもよい、従ってまた労働に基づく所有権と較べた場合、生の自然資源に対する共有権もあたかも存在しないかのように扱ってよい、というのです。少し上で述べたように、ロックは製品の価値のどれだけが労働に由来しどれだけが自然に由来するかに関して、労働に由来する分が九九パーセントであり自然に由来する分が一パーセントであると述べています(四〇節一一〜一六行)。ですから、九九パーセント分に対する私有財産権を尊重するために一パーセント分に対する共有権は無視してよい、ということです。
 第四の解釈として「効用」と呼びうる見方があります。つまり、労働には一定の効用があるので、労働によって得られた物を労働した人の私有財産として認めてよいという考えです。しかし、効用は多分に偶然的な要因によって左右されるので、効用と私有財産の結び付きはそれほど確固としたものではなく、効用が私有財産を正当化するとは一概には言えません。
 第五の解釈は「自由の拡張」または「人格の拡張」と呼ばれる解釈です(3)。まず、ロックの考えによれば、私有財産権の基礎は自己所有権にあります(四四節)。自己所有権とは、自分の身体を自由に支配できる権利です(一九〇節一〜三行)。これは、各人が自由であること、言い換えると他人による恣意的な干渉や支配を受けないことを意味します(四節三〜六行)。このように自分の身体を自由に支配できることは、人間が道徳的存在であるために絶対に必要不可欠です。身体がなければ何もできないように、自分の身体の自由が制限されれば自分自身の自由が制限されるのです。では、自分の身体を自由に使うことができればそれで十分かと言えば、そうではありません。もし共有の自然から日々の食べ物を採取し、採取しただけの食べ物を消費するのであれば、それは生存するだけの存在に過ぎず、人間的というよりも動物的でしょう。それでは、人間が人間らしい生き方をするためには何が必要でしょうか。自分の人生を組み立てること、その日暮らしではなく、計画的に人生を組み立てることが、人間の自律ということにとって必要不可欠だと思われます。そしてそのためには、人生を組み立てるための資材が要ります。つまり、将来にわたる計画を持ち得るためには、自然資源を直接に消費するだけではなく、自然資源を私的に保有することが必要です。そうして初めて、必要な時に必要な物を自由に使うことができます。例えば、家を建てるには相当の日数を要しますが、もしその途中で私的所有権が尊重されないなら、家を建てるという行為は成り立たないでしょう。また、家を建てるのは完成した家に継続的に住むためですから、もし完成した家を他人が勝手に占拠することが許されるなら、やはり家を建てるという行為は成り立たないでしょう。ですから、自然状態において家を建てて人間らしい生活をするためには、建てた家の所有権が尊重されることが必要です。
 では何故それは、他でもない自分が建てた家の所有権なのでしょうか、なぜ他人の所有権ではないのでしょうか。建てた人と建てられた家との特殊な結び付きはどうして生まれるのでしょうか。それは、家を建てるという行為によって、建てられた家が、建てた人の人生設計に組み込まれるからです。つまり、労働は一定の目的のために行われ、その行為によって、労働が加えられた対象は、労働した人の自由の実現にとって不可欠なものになるのです。労働の目的が労働する人によって自ら選び取られたものである限り、その目的の実現はその人の自由の実現でもあります。ですから例えば、家を建てて人間らしい生活をするという目的の実現は、人間らしい生活をする自由の実現です。
 「人間らしい生活」ということには、自律的な生活ということが含まれます。自律的な生活とは、様々な自然的・社会的要因に脅かされるのではなく、自分がしたいことをするためにいちいち他人の承認を必要とするのでもなく、自分の生活を自分で自由に支配できることです。人は労働することによって、そのような自由の領域(基盤)を獲得するのです。
 この見方は、私有財産正当化の根拠としては主観的であると思われるかもしれません。というのは、この見方によれば、労働が私有財産を生むのは、要するに労働した人が労働を加えた対象を自分の人生設計に組み込んだからです。しかし、人生設計とはその人が自分の頭の中で考えたことに他なりません。この点をナーヴソンが非常にはっきりと認めているので、少し長くなりますが、ナーヴソンの文章を引用します。
「なぜ労働した人は、労働が加えられた対象全体(素材を含めて)に対して所有権を得るのか」という問いに対する簡明直截な答えは、労働した人はその対象を自分のものにしようとしていたということである。労働した人は、その対象全体を使って様々なことができるようになることを期待していた──それこそが労働という行為のそもそもの目的だったのである。もし我々が自由尊重の前提を受け入れ、人間にはしたいことをする自由があることを認めるのであれば、その自由という一般原理で既に十分に(他人の自由を侵害するような特別な事情がない限り)私有財産権は基礎付けられるのである。(Narveson: 83)
つまりナーヴソンによれば、人はしたいことをする自由があるので、労働を加えた対象を自分のものにしたいと欲求し意志すればそうしてよいのであり、私有財産の根拠としては人が対象の私有化を意図したということで十分だというのです。
 このような見方は、私有財産を人の意志という薄弱なものに基づけることになるでしょうか。必ずしもそうではありません。というのは、まず第一に、確かに特定の物を自分のものにしたいと願うかどうかは偶然的なことであり、人によって願ったり願わなかったりという違いがあるでしょう。例えば、私がこのドングリまたは貝殻を欲しいと思ったとしても、他の人がその同一のドングリまたは貝殻を欲しいと思うとは限らないでしょう。他の人はドングリまたは貝殻に何の興味も示さないかもしれませんし、興味があったとしても、私が欲しいと思ったその同一のドングリまたは貝殻を欲しいと思う必然性はありません。しかし、個別的な対象の次元ではなく少し抽象的な次元で考えれば、自分の自由の実現のために必要な資源を私有化したいと願うことは全ての人に共通な普遍的欲求でしょう──自分の自由を実現したいと願うことは、人間の本性に基づいた欲求です。ですから、労働を加えた対象を自分のものにしたいという意志は、主観的ではあっても、決して恣意的ではありません。第二に、対象を自分のものにしたいという意図は、単なる意図であってはいけません。つまり、あれをこうしてああしたいということを頭の中で構想しているだけでは十分ではありません。そのような頭の中のことがらは他の人には解らないからです。そうではなく、自分の意志を客観化する必要があります。つまり、対象を自分のものにしたいという意志が真剣なものであることを、誰にもよく見える形で具体的に示す必要があります。それを示すのが、労働を加えるという行為でしょう。労働を加えることによって世界が客観的に変わる訳ですから、対象を自分のものにしたいという意志は客観的な在り方を得ることになります。従って、私有財産を自由の実現と結び付けるこの第五の解釈は、私有財産を決して単に主観的なものに還元しようとするのではなく、私有財産の客観的な妥当性を主張できると思われます。
 もちろん、自由の実現と言えば、直ちにその自由の内容が問われるでしょう。自由が消極的自由と積極的自由に区別されることはよく知られている通りです(バーリン:三〇三〜三二五)。消極的自由とは、他人による干渉や強制を受けないことです。積極的自由とは、人間が真の自我を支障なく実現できることです。積極的自由の概念は、真の自我を理想の自我とか高次の自我と捉える人たちによって、「専制政治の武器」に変えられてきました(バーリン:六六)。しかし、そのように自我を現実の個人から切り離してしまう解釈が自由主義に反することは、バーリンの指摘する通りです。そこでここでは自由主義の精神に沿うよう、自我を現実あるがままの個人の意志として捉え、積極的自由を「自分の人間としての可能性を自分が願う仕方で支障なく実現できること」と理解します。「自分が願う仕方で」ということの意味は、人生設計に関して多様性を認めるということです。
 このように理解した場合、消極的自由と積極的自由の違いはより簡単に表現できるように思われます。消極的自由は、自分がしたいことを他人によって妨げられないことであり、積極的自由は、自分がしたいことを現に実行するだけの力が自分にあることだと言えるでしょう。この力は能力と資力の両方を含みます──要するに、自分がしたいことをするのに必要なものです。このように並べてみれば、消極的自由と積極的自由が全く別個のものではなく、両者の間には連続性があることが解るでしょう。つまり、まず消極的自由があって、その上に積極的自由があります。言い換えると、積極的自由は消極的自由を前提します。ですから、積極的自由を実現するために消極的自由を制限するというのは、本末転倒なのです。しかしながら、どの程度まで自由を尊重するかという点に関しては、意見が分かれます。例えば上で引用したナーヴソンは、消極的自由で十分だと考え、その上で労働による私有財産の獲得を消極的自由の一部だと考えます。但し、ナーヴソンが消極的自由で十分に私有財産を正当化できると考えるのには訳があります。というのはナーヴソンは、私有化される前の自然資源が共有ではなく無主の状態であったと考えるからです。無主の状態であったから、人が自然資源を好きなようにすることを妨げるものが何もないので、私有化も当然許されるのです。しかしロックは、私有財産成立以前の自然資源を人類の共有と考えますし、私もそれが合理的であると考えます。ですからこの点で、ナーブソンに賛成することはできません──自然資源の私有化を妨げるものが何もないというのではなく、私有財産の正当化には、人類の共有権を凌駕できるだけの、より強力な根拠が要るのです。
 他方で、自由を単に消極的自由としてだけではなく積極的自由として捉える立場もあります(4)。消極的自由は既に自己所有権によって保証されています。自己所有権があれば自分の身体の使い方に関して他人からの制約を受けないので、そのような人は──つまり、すべての人は──消極的意味で自由でしょう。ではそれで、人間の自由として十分でしょうか。消極的自由という意味では、蝉やカブト虫でも、人間に見つからず生活環境を人間に侵害されない限りは、自由でしょう。しかしそれは人間の自由ではありません。森の中で他人の干渉を受けずに育った野生児についても同様です。人が人間として自由であるためには、社会の中で一定の条件を備えている必要があります。その条件の中で特に重要なのが教育と私有財産です。問題は、自分の身体以外の物に対する所有権(私有財産権)を正当化する根拠は何か、ということでした。私有財産成立の原則に関する第五の解釈が提案するのは、私有財産が人間の積極的自由にとって必要であるという見方です。
 私有財産は、ナーヴソンが考えたように簡単に消極的自由によって正当化することはできません。しかし、人間が人間として自律的に生きるためには、自分の身体以外にも他人の干渉を受けずに支配できる物が必要です。こうして積極的自由によって正当化される私有財産には、土地、建物、生産財、消費財、金銭など、ありとあらゆる物があるでしょう。その中で何をどれだけ必要とするかは、各人の人生設計に応じて様々であるでしょう。しかし、たとえどのような人生設計を持つにせよ、なにがしかの私有財産は必要です。しかも積極的自由はすべての人の権利ですから、すべての人に私有財産を持つ権利があります。これは、誰も私有財産から排除されない、すべての人が私有財産を保証されるべきだという意味です。但し、どれだけの私有財産を保証できるかは、状況に応じて異なり得るでしょう。例えば、大きな大陸に少数の人間がいる場合と、小さな島に多数の人間がいる場合では、当然、利用可能な私有財産の量が異なってくるでしょう。また、同じ面積であっても、豊かな土地と貧しい土地とでは、やはり異なるでしょう。ですからここでは、すべての人がどれだけの私有財産を保証されるべきかという点に関しては、積極的自由を実現するのに必要な最小限の私有財産と述べておくに留めます。

    二、多元的正当化論の否定

 以上述べてきたように、私有財産成立の原則における労働の意義に関して、第三と第五の見方、つまり価値創造と自由の拡張は、なぜ人が労働を加えた対象がその人の私有財産になるべきなのかを十分説得的に説明すると思われます。そうすると、なぜ二つの解釈が妥当なものであり得るのか、疑問に思われるでしょう。というのは、いくつかある解釈の内、一つが正しければ他のものは間違いであると思われるからです──価値創造という見方が正しいのであれば、自由の拡張は間違っているのであろうし、反対に自由の拡張という見方が正しいのであれば、価値創造は間違っている、という訳です。このように正しい解釈を一つに限ることに抗して、近年、多元的正当化論を唱える人たちがいます(5)。今の場合、多元的正当化論とは、私有財産を正当化する議論が複数個独立にあるとする見方です。つまり、同じ結論に至るのに別々の経路があって、こっちの経路を通って行くこともできればあっちの経路を通って行くこともできるというのです。しかし、たとえ一つの解釈の正しいことが他の解釈の間違いを証明しないとしても、もし一つの解釈が私有財産正当化論として成功するのであればなぜ第二の解釈が必要なのか、疑問に思われるでしょう。もし私有財産を正当化する議論が複数個あるというならば、どれが本質的な議論なのでしょうか。少なくとも、複数個あるとされる論拠の間の相互関係を明らかにすべきでしょう。私には、私有財産を正当化する議論が複数個あると主張するのは、私有財産の正当性を示唆する論点をあれこれと挙げているだけであり、あれこれと挙げることによってかえって議論を散漫なものにするように思われます。
 私自身は、上で価値創造と自由の拡張という二つの解釈が妥当な解釈だと述べましたが、その二つの解釈はそれぞれが独立にではなく、両者が合わさって私有財産を正当化すると考えます。つまり、価値の創造と自由の拡張という両方の条件を満たした場合に初めて私有財産が正当化され得るのです。このことを主張するために、価値を創造するけれども自由の拡張にならない場合、および自由の拡張になるけれども価値を創造しない場合を考えてみましょう。まず、価値を創造するが自由の拡張にならない場合です。例えば、人間以外の機械や動物や植物が価値を生み出した場合、機械や動物や植物が自由の意識や労働の目的意識を持たない限り、それらの機械や動物や植物に所有権は発生しません。人間の場合でも、例えば私が捨てた種が芽を出し成長して豊かに実を実らせたとしても、私に関心がない限り、私に所有権は発生しないでしょう。また、私が明確な目的意識を持ち、労苦して何かを作り上げたとしても、私に私有しようという意志がない限り、作り上げた物に対する所有権は発生しないでしょう。例えば、私が自分が所有するためではなく人々に喜んでもらおうと思って川に橋を架けるような場合です。ですから、対象を自分の自由の拡張のために私有財産として役立てようという意欲がないところでは、労働が価値を創造したとしても私有財産は生み出されません(従って、正当化されません)。
 次に、自由の拡張になるけれども価値を創造しない場合を考えてみましょう。例えば、私が遊ぶためにある原っぱを利用する場合です。その場合、その原っぱは私が自由に遊ぶことにとって必要な手段になるでしょう。しかし、その原っぱに労働を加えて価値を高めるのでなければ、その原っぱは私の私有財産として十分に正当化されないと思われます。つまり、なぜ他の人の利用が排除されるのかが十分に説明されません。先占理論が私有財産の正当化論として不十分な所以です。先占理論とは、対象を他の人よりも時間的に先に占有した人がその対象に対する所有権を獲得するという原理、別言すると、ある人がある対象を他の人よりも先に占有したという事実がその人のその対象への所有権を正当化するという見解です。しかし、ある人がある対象を占有したという一方的行為は、その対象をめぐるその人と他の人との間の権利関係を変えるだけの道徳的意義があるとは思われません。もし仮にその人がその対象の所有権を望んだとしても、他の人の方ではそれを受け入れるだけの理由がないからです。自分の自由の拡張のために必要な手段としてある対象を利用する場合も同様であって、それだけでは一方的な利己的行為に過ぎません。私的所有権のためには、他人を説得できるだけの根拠が必要であり、それが対象に労働を加えて価値を創造するということでしょう。

    結論

 以上述べてきたところをまとめれば、こうなります。ロックの私有財産成立の原則──人が労働を加えた物はその人の私有財産になる──を支える論理・根拠は、価値の創造と自由の拡張です。それらは労働ということの客観的意味と主観的意味と言ってもよいものであり、両方が備わって初めて私有財産を正当化できます。ですから、私有財産を正当化する議論は二つあるのではなく、正当化の原理はあくまでも一つであり、労働という一つの原理に客観的と主観的と二つの側面があると言った方が適切です。

 付記

 研究発表の会場では、遺産相続の問題、知的財産権の問題、価値が創造というよりも発見された場合の問題などについて質問を頂いた。それらの問題に正式に答えることは別の機会に期したい。


 注

(1) ロックの「市民政府論」に言及する時には、題名と章名は省略して節を挙げ、またラスレット版では節毎に行番号が付いていて便利なので、ラスレット版での行番号も挙げることにする。
(2) 下川:一三三〜一三八、森村一九九五:四四〜五一、一九九七:一一六〜一二二を参照。
(3) 下川:一二六〜一二八、Simmons: 271-77を参照。
(4) Waldron: 284-322、グレイ:一〇〇を参照。
(5) Simmons: 254、森村一九九七:一一五を参照。


 文献

ジョン・グレイ(藤原・輪島訳)、『自由主義』、昭和堂、一九九一年。
下川潔、『ジョン・ロックの自由主義政治哲学』、名古屋大学出版会、二〇〇〇年。
アイザィア・バーリン(生松敬三他訳)、『自由論』、みすず書房、一九七一年。
森村進、『財産権の理論』、弘文堂、一九九五年。
───、『ロック所有論の再生』、有斐閣、一九九七年。
Locke, John. Two Treatises of Government, ed. Peter Laslett. Cambridge: Cambridge University Press, 1988.
Narveson, Jan. The Libertarian Idea. Philadelphia: Temple University Press, 1988.
Simmons, John. The Lockean Theory of Rights. Princeton: Princeton University Press, 1992.
Waldron, Jeremy. The Right to Private Property. Oxford: Clarendon Press, 1988.



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