序
ジョン・ロックの私有財産論はロックの市民政府論の一部であり、その市民政府論は社会契約説という考えに基づいています。つまり国家は、人々が社会契約によって設立するという考えです。そして、国家を作るのは人々の生命、自由、財産を守るためです。ですから、私有財産は国家に先立って存在し、私有財産の本性は国家の設立に先立って説明する必要があります。
ロックの私有財産論の基本は、以下の三つの原則にまとめることができます。
1、私有財産成立の原則
人が労働を加えた物はその人の私有財産になる(二七節四〜七行)(1)。
2、私有財産成立の付帯条件
「他人にも十分なだけ同様な質の物が残されている限り」(二七節一二〜一三行)。
3、私有財産の範囲条件
腐らせずに利用できる範囲内で(三一節七〜九行)。
これら三つの原則の他に、ロックの私有財産論には次の三つの前提があります。
前提1、すべての物は人類の共有物であった(二五節六〜八行)。
前提2、人間には生存する権利があり、そのために必要な物を消費する権利がある(二五節二〜四行)。
前提3、自分の身体は自分のものであり、従って自分の労働も自分のものである(二七節二〜四行)。
前提1は、すべての物に対してすべての人が等し並に権利を持っていて、誰一人として排除されないということをいいます。ところが、私有財産とは他人による利用を排除することに他なりませんから、どのようにして人類の共有物が私有財産に転化し得るのかという疑問が生じます(二五節九〜一〇行)。この疑問に答えるものとしてロックの私有財産論は構想されています(二五節一六〜一八行)。前提2が述べる生存権は、ロックによれば人間の自然権、つまり国家の成立以前にも存在する人間の権利です。また人間は食べ物を食べないでは生きていけませんから、生きていくために食べ物を食べることも自然権に属します。ところが、食べ物を食べることは他人がその同じ食べ物を食べることを排除しますから、人間が生きていくための権利を有するということはある種の物を私有する権利を持つということになります。そして人間に特定の物を私有する権利があるとすれば、その物に対する権利を獲得する方法があるはずです(二六節一〇〜一二行)。こうして前提2は前提1と組み合わさって、私有財産を正当化する論理の必要不可欠性を述べることになります。
それでは、共有物が如何にして私有財産になり得るのか、この問いに対する鍵を提供してくれるのが前提3です。私有財産は無から生じる訳ではなく、私有財産を発生させる元になるものがあります。それは人類の共有物ではないような物、即ち各人の身体です。前提3の前半は、自分の身体が自分のものであること──自己所有権──を主張しています。自分の身体が自分のものであるから、それを基礎にして他の物に対する私有財産権も可能になる訳です。言い換えると、ロックの私有財産論では、私有財産権は自己所有権の延長または拡張として理解されています。そして自己所有権と私有財産権を結び付けるのが、労働という観念です。前提3は全体として、自分の身体が自分のものであるから、自分の手足の働きである労働も自分のものであることを主張します。
以上がロックの私有財産論の大変大雑把な概要ですが、その中で最も重要なのは私有財産成立の原則です。本論文では、この原則の意味を解明し、この原則の正当性を再評価します。
一、私有財産成立の原則の解釈
私有財産成立の原則をもう一度述べると
人が労働を加えた物はその人の私有財産になる(二七節四〜七行)です。何故でしょうか。労働を加えることにどういう意味があるのでしょうか。この点に関していくつもの解釈が考えられていますが、主な解釈は五種類に分かれるように思われます。即ち、第一に「一体化」、第二に「功績」、第三に「価値創造」、第四に「効用」、第五に「自由の拡張」です。このうち、一体化と功績と効用は結局のところ見込みがないので、それらの解釈が認められない理由をごく簡単に述べるに留めて、本論文ではもっぱら価値創造と自由の拡張に焦点を絞ります。
あらゆるものに価値を付け足すのが労働である。(四〇節三〜四行)そしてロックは、土地の価値を農産物の収穫によって計り、労働が加えられていない土地は労働が加えられた土地に較べて多めに見積もっても十分の一(四〇節一〇〜一一行)、小麦の収穫で計ると千分の一の価値しかないと主張します(四三節一〜七行)。十分の一と千分の一では大きく異なりますが、要は「物の価値の大部分を創りだすのは労働である」ということでしょう(四二節一四〜一五行)。この点は土地について当てはまるだけでなく、パンのように私たちが直接利用する製品の場合には一層明らかでしょう。ロックは次のように述べます。
私たちが直接利用する製品の価値を正しく評価し、それにかかった費用を数えて、どれだけが純粋に自然の代価であり、どれだけが労働の費用であるかを計算するならば、大抵の製品の場合、九九パーセントまでが労働の費用であることが解るだろう。(四〇節一一〜一五行)労働が加えられる前には存在しなかった価値を労働した人が創りだすのですから、労働した人が自分で創りだした価値を所有することはごく自然なことでしょう。少なくともその価値に対して他人が所有権を主張できる根拠はないように思われます。ですから、この「価値創造」と呼ばれる見方は、私有財産正当化の議論として相当の説得力があり、私としては基本的に有効な議論だと考えます。
人の手が加えられていない土地はほとんど何の価値もない。(四三節八〜九行)だから、人が労働によって土地を改良した場合、
自然や大地は、ほとんど無価値の原材料を提供するに過ぎない。(四三節二一〜二二行)
労働に基づく所有権が土地の共有権を凌駕する。(四〇節二〜三行)つまり、労働が加えられていない自然資源はほとんど無価値なので、労働が創りだす付加価値と較べた場合あたかも無価値であるかのように扱ってもよい、従ってまた労働に基づく所有権と較べた場合、生の自然資源に対する共有権もあたかも存在しないかのように扱ってよい、というのです。少し上で述べたように、ロックは製品の価値のどれだけが労働に由来しどれだけが自然に由来するかに関して、労働に由来する分が九九パーセントであり自然に由来する分が一パーセントであると述べています(四〇節一一〜一六行)。ですから、九九パーセント分に対する私有財産権を尊重するために一パーセント分に対する共有権は無視してよい、ということです。
「なぜ労働した人は、労働が加えられた対象全体(素材を含めて)に対して所有権を得るのか」という問いに対する簡明直截な答えは、労働した人はその対象を自分のものにしようとしていたということである。労働した人は、その対象全体を使って様々なことができるようになることを期待していた──それこそが労働という行為のそもそもの目的だったのである。もし我々が自由尊重の前提を受け入れ、人間にはしたいことをする自由があることを認めるのであれば、その自由という一般原理で既に十分に(他人の自由を侵害するような特別な事情がない限り)私有財産権は基礎付けられるのである。(Narveson: 83)つまりナーヴソンによれば、人はしたいことをする自由があるので、労働を加えた対象を自分のものにしたいと欲求し意志すればそうしてよいのであり、私有財産の根拠としては人が対象の私有化を意図したということで十分だというのです。
二、多元的正当化論の否定
以上述べてきたように、私有財産成立の原則における労働の意義に関して、第三と第五の見方、つまり価値創造と自由の拡張は、なぜ人が労働を加えた対象がその人の私有財産になるべきなのかを十分説得的に説明すると思われます。そうすると、なぜ二つの解釈が妥当なものであり得るのか、疑問に思われるでしょう。というのは、いくつかある解釈の内、一つが正しければ他のものは間違いであると思われるからです──価値創造という見方が正しいのであれば、自由の拡張は間違っているのであろうし、反対に自由の拡張という見方が正しいのであれば、価値創造は間違っている、という訳です。このように正しい解釈を一つに限ることに抗して、近年、多元的正当化論を唱える人たちがいます(5)。今の場合、多元的正当化論とは、私有財産を正当化する議論が複数個独立にあるとする見方です。つまり、同じ結論に至るのに別々の経路があって、こっちの経路を通って行くこともできればあっちの経路を通って行くこともできるというのです。しかし、たとえ一つの解釈の正しいことが他の解釈の間違いを証明しないとしても、もし一つの解釈が私有財産正当化論として成功するのであればなぜ第二の解釈が必要なのか、疑問に思われるでしょう。もし私有財産を正当化する議論が複数個あるというならば、どれが本質的な議論なのでしょうか。少なくとも、複数個あるとされる論拠の間の相互関係を明らかにすべきでしょう。私には、私有財産を正当化する議論が複数個あると主張するのは、私有財産の正当性を示唆する論点をあれこれと挙げているだけであり、あれこれと挙げることによってかえって議論を散漫なものにするように思われます。
私自身は、上で価値創造と自由の拡張という二つの解釈が妥当な解釈だと述べましたが、その二つの解釈はそれぞれが独立にではなく、両者が合わさって私有財産を正当化すると考えます。つまり、価値の創造と自由の拡張という両方の条件を満たした場合に初めて私有財産が正当化され得るのです。このことを主張するために、価値を創造するけれども自由の拡張にならない場合、および自由の拡張になるけれども価値を創造しない場合を考えてみましょう。まず、価値を創造するが自由の拡張にならない場合です。例えば、人間以外の機械や動物や植物が価値を生み出した場合、機械や動物や植物が自由の意識や労働の目的意識を持たない限り、それらの機械や動物や植物に所有権は発生しません。人間の場合でも、例えば私が捨てた種が芽を出し成長して豊かに実を実らせたとしても、私に関心がない限り、私に所有権は発生しないでしょう。また、私が明確な目的意識を持ち、労苦して何かを作り上げたとしても、私に私有しようという意志がない限り、作り上げた物に対する所有権は発生しないでしょう。例えば、私が自分が所有するためではなく人々に喜んでもらおうと思って川に橋を架けるような場合です。ですから、対象を自分の自由の拡張のために私有財産として役立てようという意欲がないところでは、労働が価値を創造したとしても私有財産は生み出されません(従って、正当化されません)。
次に、自由の拡張になるけれども価値を創造しない場合を考えてみましょう。例えば、私が遊ぶためにある原っぱを利用する場合です。その場合、その原っぱは私が自由に遊ぶことにとって必要な手段になるでしょう。しかし、その原っぱに労働を加えて価値を高めるのでなければ、その原っぱは私の私有財産として十分に正当化されないと思われます。つまり、なぜ他の人の利用が排除されるのかが十分に説明されません。先占理論が私有財産の正当化論として不十分な所以です。先占理論とは、対象を他の人よりも時間的に先に占有した人がその対象に対する所有権を獲得するという原理、別言すると、ある人がある対象を他の人よりも先に占有したという事実がその人のその対象への所有権を正当化するという見解です。しかし、ある人がある対象を占有したという一方的行為は、その対象をめぐるその人と他の人との間の権利関係を変えるだけの道徳的意義があるとは思われません。もし仮にその人がその対象の所有権を望んだとしても、他の人の方ではそれを受け入れるだけの理由がないからです。自分の自由の拡張のために必要な手段としてある対象を利用する場合も同様であって、それだけでは一方的な利己的行為に過ぎません。私的所有権のためには、他人を説得できるだけの根拠が必要であり、それが対象に労働を加えて価値を創造するということでしょう。
結論
以上述べてきたところをまとめれば、こうなります。ロックの私有財産成立の原則──人が労働を加えた物はその人の私有財産になる──を支える論理・根拠は、価値の創造と自由の拡張です。それらは労働ということの客観的意味と主観的意味と言ってもよいものであり、両方が備わって初めて私有財産を正当化できます。ですから、私有財産を正当化する議論は二つあるのではなく、正当化の原理はあくまでも一つであり、労働という一つの原理に客観的と主観的と二つの側面があると言った方が適切です。
付記
研究発表の会場では、遺産相続の問題、知的財産権の問題、価値が創造というよりも発見された場合の問題などについて質問を頂いた。それらの問題に正式に答えることは別の機会に期したい。
注
(1) ロックの「市民政府論」に言及する時には、題名と章名は省略して節を挙げ、またラスレット版では節毎に行番号が付いていて便利なので、ラスレット版での行番号も挙げることにする。
(2) 下川:一三三〜一三八、森村一九九五:四四〜五一、一九九七:一一六〜一二二を参照。
(3) 下川:一二六〜一二八、Simmons: 271-77を参照。
(4) Waldron: 284-322、グレイ:一〇〇を参照。
(5) Simmons: 254、森村一九九七:一一五を参照。
文献
ジョン・グレイ(藤原・輪島訳)、『自由主義』、昭和堂、一九九一年。
下川潔、『ジョン・ロックの自由主義政治哲学』、名古屋大学出版会、二〇〇〇年。
アイザィア・バーリン(生松敬三他訳)、『自由論』、みすず書房、一九七一年。
森村進、『財産権の理論』、弘文堂、一九九五年。
───、『ロック所有論の再生』、有斐閣、一九九七年。
Locke, John. Two Treatises of Government, ed. Peter Laslett. Cambridge: Cambridge University Press, 1988.
Narveson, Jan. The Libertarian Idea. Philadelphia: Temple University Press, 1988.
Simmons, John. The Lockean Theory of Rights. Princeton: Princeton University Press, 1992.
Waldron, Jeremy. The Right to Private Property. Oxford: Clarendon Press, 1988.