以下の書評は、英知大学人文科学研究室紀要『人間文化』第1巻(1998年)、211〜216頁に掲載されたものです。


Gail Fine. On Ideas: Aristotle's Criticism of Plato's Thoery of Forms. Oxford: Clarendon Press, 1993. Pp. xv + 400.

浅 野 幸 治   

主題
 アリストテレスには『イデアについて』と題する著作があったが、今では僅かな断片が残るのみである。その断片は、アプロディシアスのアレクサンドロスがアリストテレスの『形而上学』第1巻第9章について書き記した注釈の中に残されていて、邦訳は岩波版『アリストテレス全集 第17巻』の松本厚訳で読むことができる。ここで紹介するファインの書は、『イデアについて』の断片のうち第1巻を構成する(とファインが考える)部分についての非常に詳細な研究書である。
 『イデアについて』第1巻において、アリストテレスは、(プラトンの)イデアを措定するための議論を5つ紹介し、それぞれを批判している。5つの議論とは、(1) 知識の存在からの議論 (the Arguments from the Sciences)、(2) 多の上に立つ一という議論 (the One over Many Argument)、(3) 思考の対象という議論 (the Object of Thought Argument)、(4) 関係的なものからの議論 (the Argument from Relatives)、(5) 厳密な多の上に立つ一という議論 (the Accurate One over Many Argument) である。 これらの議論が教えてくれるイデア論の論理とは、一体いかなるものだろうか。『イデアについて』は、ファインの言うように「プラトンのイデア論を理解しようとするすべての人にとって、特別に実り豊かな研究対象である」(p. vii)。また、普遍 (Universals) の本性という問題に関心のあるすべての人にとっても、必読の書である(pp. vii, 21)。ファインの関心の中心はプラトン中期対話篇のイデア論にあるが、本書の射程はそれに限られず、初期対話篇に表れたソクラテスの普遍理解、後期対話篇におけるイデア論の問題、アリストテレスの普遍理解にも目配りをしている。

研究史的背景
 アリストテレスの『イデアについて』に研究者の注意を向け、その後の研究の動向に大きな影響を与えたのは、1957年に発表されたG. E. L. Owenの論文 "A Proof in the Peri Ideon" であった。この論文でオーエンは、感覚的事物の世界では例えば「等しい」のような関係的性質は必ずその反対の性質「等しくない」と共存することを論拠とした、イデア論の不完全述語解釈(と呼びうるもの)を提示した。ファインも、感覚的事物が時間の経過と共に変化したり生成・消滅するというヘラクレイトス的観点ではなく、相反する現れの共存(Fかつ非F)を拠り所としてイデア論を解釈する点において、この解釈の伝統を引き継いでいる。

構成
 本書は、大きく3つの部分に分けることができる。第1部は、『イデアについて』のギリシア語原文と英訳を載せた第1章である。次いで第2部は序論的な役割をしている第2章から第4章までで、普遍の本性という問題設定、『イデアについて』の作者および著作年代、プラトンのイデア論の一般的問題について論じている。第3部は第5章から第16章までで、イデアを措定するための5つの議論のそれぞれについて詳細に論じている。より詳しく言うと、第5章から第7章が知識の存在からの議論、第8章が多の上に立つ一という議論、第9章が思考の対象という議論、第10章から第13章までが関係的なものからの議論、そして第14章から第16章までが厳密な多の上に立つ一という議論を分析している。なお、第11章と第12章はオーエンに対する反論に当てられており、また第15章と第16章は第三人間論についての付録と見なすこともできる。

主張
 ところで、プラトン研究にとって、アリストテレスは資料として信頼できるのだろうか、と疑問に思う向きもあるだろう。アリストテレスはイデア論を批判しているのだから、もしアリストテレスのプラトン理解が正しければ、イデア論は破綻しているのだし、他方もし誤解であれば、イデア論は救われるがアリストテレスの資料としての価値がない。しかし、ファインによれば、イデア論が破綻しているかアリストテレスが誤解しているか2つに1つというほど、ことは単純ではない。ファインによれば、『イデアについて』の5つの議論は、プラトンの中期対話篇にしっかりと根ざしている。但しこれはプラトンの議論を言葉通り繰り返しているという意味ではない。プラトンのテキストはその意味に関して不確定であり、アリストテレスはプラトンの議論を再構成しているのである。その狙いは、不確定に残された問題を解明することにある。
 ファインによれば、『イデアについて』第1巻におけるアリストテレスの戦略は、鮮やかな両刀論法である。イデアを措定するための5つの議論は、厳密でない初めの3つの議論と厳密な後2つの議論とに分かれる。ファインによれば、厳密でない3つの議論は推論として妥当 (valid) でないし、かと言って厳密な2つの議論は妥当な推論ではあるが健全 (sound) ではない。つまり、まず一方で厳密でない3つの議論の前提からは、イデアの存在が帰結しない。しかし他方で、厳密な2つの議論の前提からは確かにイデアの存在は導かれるが、容認できないイデア(関係的なもののイデアや第3の人間)の存在までも導かれてしまう。従って、イデアを措定するための議論は、厳密でないものも厳密なものも、イデアの存在を証明しない。但しアリストテレスは、厳密でない議論の前提は基本的に正しく、「共通な性質(アリストテレス的普遍)」の存在を含意すると考える。かくしてアリストテレスがこの両刀論法を通して示唆することは、プラトンは厳密な議論を取って行きづまるか、厳密でない議論を取る場合には結論部をイデアの存在からアリストテレス的普遍の存在に修正すべきだ、ということである。
 以上の両刀論法的解釈が本書の最も顕著な特色である。次にファインがイデア論について主張するその他の論点も少し述べておこう。(1) 既に述べたように、ファインによれば、プラトンはヘラクレイトス的流転説を信じない。イデア論は相反する現れの共存という現象に基づいている。(2) イデアは知識の基本的な対象ではあるが唯一の対象ではない。イデアを知らなければ他の知識もありえないが、イデアを知れば感覚的事物についての判断も知識になりえる。(3) ソクラテス・プラトンの何であるかの問いに対して対話相手が与える多くの答えは感覚的個物というよりも一般的タイプを述べている。言い換えると、相反する現れを示すのは、例えば美しくかつ醜いのは、ヘレネーというような個人や物ではなく、「明るい色」というような一般的な感覚的性質である。

問題点
 百家争鳴の観あるプラトン研究であってみれば、ファインの主張する論点のほとんどすべてに異論を立てることが可能であろう。しかしここでは、『イデアについて』第1巻の「鮮やかな両刀論法」に限って少し問題点を指摘したい。5つの議論のうち、思考の対象という議論は恐らく最も重要でない議論であろう。そこで、それをのけて考えると、残り4つの議論のうち、一見して知識の存在からの議論と関係的なものからの議論と、また多の上に立つ一という議論と厳密な多の上に立つ一という議論とが同種の議論であることが気付かれる。
 確かにアリストテレスは、関係的なものからの議論と厳密な多の上に立つ一という議論とを「より厳密な (akribesteroi)」ものとして区別しているが、それが、ファインの言うように「妥当な」という意味であるかどうかは疑わしい。例えば、知識の存在からの議論と関係的なものからの議論を見てみよう。知識の存在からの議論では、個物(または特定の感覚的性質)が「(自己)同一的でない」とか「不定である」ということの意味は「広義の相反する現れを示す」ということである。関係的なものからの議論では、感覚的な等しいものが「変化し不定である」から真に等しいものではないというのは「相反する現れを示す」という意味である。従って、いずれの議論でも、導き出される結論は「Fであり決して非Fではないようなものが存在する」ということである。ファインは2つの議論の違いとして、関係的なものからの議論によって措定されるFそのものは完全なFである(完全範型説)けれども知識の存在からの議論によって措定されるFそのものはそうではない(弱い範型説)と主張するが(pp. 157-9)、そのような違いは見いだされえない。この文脈においてFそのものが「完全にFである」というのは、「相反する現れを示さない」ということだから、もし関係的なものからの議論が妥当であれば、知識の存在からの議論も同様に妥当であろう。従って、厳密でない議論と厳密な議論との違いは、別の点に求められるべきであろう。
 更にファインによれば、プラトンのイデアとは「非感覚的で永遠的で自存的  (separate) で完全な範型」である。また、関係的なものからの議論は完全な範型を措定する妥当な推論で、厳密な多の上に立つ一という議論は自存的な普遍を措定する妥当な推論である。しかし、もし知識の存在からの議論がイデアの完全性を証明しないが故にイデアを措定する推論として妥当でないならば、同じ論理によって、厳密な多の上に立つ一という議論もイデアの完全性を証明しないが故に妥当でないことになろう。この点に関してファインは、厳密な2つの議論はいずれか一方でイデアを措定するために必要かつ十分であると言う(p. 27)。しかし、完全な範型からいかにして自存性が出てくるのか、自存的な普遍からいかにして完全性が出てくるのかは、全く不明である。

結語
 以上少し批判も書いたが、本書の長所はその詳細な議論にあり、本書はファインと意見を異にするすべての研究者にとって大きな挑戦である。

(あさのこうじ) 



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