以下の書評は、英知大学人文科学研究室紀要『人間文化』第2巻(1999年)、219〜224頁に掲載されたものです。


T. K. Seung. Kant's Platonic Revolution in Moral and Political Philosophy. Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1994. Pp. xvii + 268.

浅 野 幸 治   

 本書は、カント倫理学の形式主義的解釈に対する批判である。それのみならず、スンによれば、批判哲学といえどもカントの価値論にとってはさして重要ではない。カントの実践哲学の中で最も重要な要素は、教授就任論文『感性界と知性界の形式と原理』から始まるプラトン的転回(Platonic Revolution)──漸進的な転回──である。プラトン的転回とは、価値規範の実証主義でも普遍化可能性や整合性といった論理的要件によって実質的価値を確保しようとする形而上学的幻想でもなく、超越論的規範主義への方向転回である。このことを主張するため、スンは明快で力強い議論を展開している。以下では、本書の内容を簡単に紹介してみたい。
 本書は、大きく3つの部分に分けることができる。序論の役割をしている第1章が第1部、カントの主要著作を解釈していく第2章から第6章が第2部、結論および付録と呼べる第7章と第8章が第3部である。まず第1章「近代科学と価値の問題」においてスンは、カントが取り組むことになる問題を述べ、初期カントの倫理的思索を概観する。近代科学の機械論的自然観によれば、世界は力学の法則に支配された物質の世界である。そのような世界で起こることはすべて必然的に生起するのであり、自由や人間的価値の入り込む余地がない。では、そのような世界において人間的価値はいかなる地位を占め、いかなる役割を果たすのか、これが価値の問題である。
 次に第2章「カントの『就任論文』におけるプラトン的目覚め」においてスンは、『就任論文』および第一批判『純粋理性批判』におけるプラトン主義の概要を述べる。カントは『就任論文』で感性界と知性界という二世界説を肯定し、完全性の理念をプラトン的イデアであると主張する。次いで『第一批判』では知性(understanding)の純粋概念を英知界から現象界に向け換える。では純粋概念はいかにして現象界に関わりうるのか。この問題に答えるため、カントは、概念が対象に一致するのではなく対象が概念に一致するというコペルニクス的転回を行う。この転回を可能にするのが、対象が純粋概念に従って構成されるという考え方(構成主義)である。カントの構成主義は、構成以前に対象があると考えるか否かに応じて2種類の解釈がありうる。超越論的主観が経験の対象を構成すると考えるのが実在的(存在論的)構成主義であり、対象ではなく認識に必要な概念や命題を構成すると考えるのが概念的(認識論的)構成主義である。いずれにせよスンによれば、コペルニクス的転回および構成主義はプラトン主義の放棄ではなく拡張である。
 ところでスン自身によれば、第3章からカント倫理学におけるプラトン主義についての本論が始まる。まず第3章「『第一批判』における規範的プラトン主義とカントの歴史哲学」においてスンは、『第一批判』におけるプラトン的倫理学を素描し、「世界市民的観点から見た世界史の理念」「人類史の憶測的起源」「永久平和のために」の3論文におけるカントの歴史哲学を解釈する。理性の純粋概念(理念)は超越的であり、その存在を直観することはできないが、その概念を理解することはできる。それどころか、純粋理性の理念なくしては我々は生きることができない。知性の純粋概念が経験の世界を可能にするように、理念は実践の世界を可能にする。「実践とは‥‥理念を現象界の内に実現することをいう。実践理性は英知的な理想に従って現象界を形作るのである。」(66)これが道徳的自由であり、カントは道徳的秩序を「地上の人間の歴史の中で実現されるべき理想の共同体と考える。」(68)カントによれば、純粋理性の究極目的は最高善を実現することであり、地上での最高善の不完全な実現の過程が歴史と呼ばれる。ところで上記3論文によれば、人類の歴史は、自然の状態から共和政体を経て国家間の連盟によって国際的秩序がもたらされるまでの進歩の歴史である。スンによれば、この独断的とも見えるカントの主張は批判哲学に抵触しない。「ちょうど知性の純粋概念がその立法的機能によって客観的実在性を得るように、純粋理性の理念もその立法的機能によって実践的実在性を得る。故に、自然が我々の知性の産物であるのと同じように、歴史も「我々自身の理性の産物」である。」(89)これが、実践的世界に関するカントの構成主義である。
 第4章「『道徳形而上学の基礎づけ』と第二批判『実践理性批判』──カントの形式主義」では、スンはカント倫理学の形式主義的解釈を批判し、定言的命令(定言命法)の3法式に漸進的構成主義解釈を与える。善と意志の関係について、善が意志を決定すると考えるのが実質的な善概念であるのに対して、善が意志(そのもののあり方)によって決定されるとするのが形式的な善概念である。形式主義とは、行為の原則が実質的な善概念ではなく形式的な善概念にのみ基づく場合に、意志の自律が確保されるとする見方である。そして意志そのものの善さを唯一表すのが定言的命令であるとされる。しかしよく批判されているように、行為の原則が整合的に普遍化できるか否かという形式的試験(第1法式・普遍的法則の法式)は空虚であるか、あるいは暗黙の内に実質的な善概念に依拠せざるを得ない。例えば、「お金が必要な場合に、返済の見込みがないと知りながら嘘の約束をしてお金を借りる」という原則は、実践的に普遍化できなくても論理的に矛盾している訳ではない。また「才能を発展させない」という原則が理性的意志と矛盾すると主張するのは、如何なる人生の目的が理性的かということについて一定の実質的善概念を前提している。更に定言的命令の第2法式(人格の原理)と第3法式(目的の王国)はより明白に実質的な善概念を使用している。スンによれば、定言的命令の3法式は、法の理念の明瞭化(即ち概念的構成)の3段階である。第1法式は、要するに公平性の要求であり、形式的ではなく実質的な実践原理である。この一般概念としての法の理念が、行為者や行為の及ぶ相手、更に全共同体をも視野に入れたより具体的な法の理念へと展開していくのであり、目的の王国こそ最高善に他ならない。
 第5章「『道徳形而上学』──カントのプラトン的回帰」でスンは、『道徳形而上学』の正義論にとっても徳論にとっても最高善の概念が中心的原理であることを示す。スンによれば、カントは形式主義倫理学の構想を諦め、実質的価値の倫理学に戻っているのである。しかもこのプラトン的倫理学は、英知界と現象界の断絶ではなく密接な関係が計られている点において、『第一批判』のプラトン主義よりも遥かに豊かなものである。即ち、超越論的理念は概念的構成によって経験的歴史的状況の内に具体化される時、内在的になり、これがプラトン的イデアの下降の道(katagoge)である。
 第6章「第三批判『判断力批判』──批判期後のカント」においてスンは、『第一批判』『第二批判』に対する『第三批判』の意義を論じる。『第三批判』でカントは理念の因果性を全自然界に拡張し、機械論的自然観を目的論的自然観に変える。つまり自然は、理念の故に生命ある美しいものとなる。そのような自然は英知界と現象界の融合であり、理念は現象界に内在する。従って、英知界と現象界の断絶(二元論)がカントの批判哲学の中心的特徴であったことを考えれば、『第三批判』は批判哲学を完成させるのではなく批判哲学の終わりを告げるものである。
 第7章「カントのプラトン的構成主義とヘーゲルの新プラトン主義的歴史主義」においてスンはカントのプラトン的構成主義の意義を論じており、第2章から第6章でのカント解釈の結論部にあたると言える。スンによれば、プラトン的構成主義にとって最重要な点は理念の不確定性であり、不確定な超越的理念を具体的なものにするのが構成という作業である。構成主義について一言付け加えると、概念的構成と実在的構成とは2つの選択肢ではなく構成という1つの作業の中の2段階である。この点は、虹の色や人間の音声を例にして上手く説明されている。そしてスンによれば、プラトン的構成主義こそがカント倫理学の本領であり最大の長所である。このことをスンはプラトン的構成主義を形式主義や実証主義などと較べながら論じている。この章は、著者自身の信念が最もよく表れた章でもある。カントを解釈する人は絶えず解釈上の選択を迫られるが、そのような選択において自らの信念と正直さが試されていると言える。スンはカント哲学の救うべき点は救い捨てるべき点は捨てるという姿勢で、ごまかすのでもなく納得できないことを言うのでもなく、自分の信念に基づいて非常に正直な解釈をしている。そしてこの姿勢がスンの議論を強力で説得的なものにしている。また本章の後半部でスンはヘーゲルについても論じているが、もっぱらヘーゲルに対する批判であり、カント解釈という観点からはそれほど重要ではない。
 最後の第8章「構成から脱構築へ──マルクスとデリダ」は、マルクスとハーバーマスとデリダについての付録であると言える。中でもデリダについてはかなり本格的に論じている。スンによれば、脱構築は構成の逆であり、脱構築にとっても最も基本的な問題は規範の問題である。超越論的規範を認め、脱構築を構成と再構成の中間的段階として位置付けるのでなければ、脱構築は無意味である、とスンは論じる。こうして結局この章でもスンは、プラトン的構成主義の意味を更に一層明らかにすることを狙っている。
 以上で各章の内容を簡単に紹介してきたが、本書は単にカントの道徳・政治哲学の解釈というに留まらず、プラトンからデリダに至るまで、特に近代の哲学・倫理学史全体の眺望をも与えてくれる。該博な知識と明快な論理に支えられた好著である。但し、参考文献表がないのは残念である。

(あさのこうじ) 



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